時代背景

中世・室町時代 ── 応仁の乱(1467~1477)以後、中央政権である室町幕府の求心力は衰え、
各々の領国で武士たちが力をつけていく。

それより13年早く、関東では、鎌倉府(幕府の東国統治の機関)の長官・鎌倉公方(※1)と
その補佐役・関東管領(※2)・上杉氏との全面戦争である、享徳の乱(1454〜1482)が起き、
一足先に戦乱の世の幕開けをつげていた。
(その後も、家督相続や役職をめぐる争い、山内・扇谷両上杉氏の戦い(長享の乱 1487〜1505)などが続く。)

さて、この物語の始まりは天文6(1537)年。
この頃の関東では、大きく4つの勢力が対立していた。
下総の古河公方・足利氏(※1)、関東管領・山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏(※3)、
扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏(※4)の争いの渦中に、新たに関東支配をめざす北条氏(※5)が進出してくる。

天文6年、扇谷上杉氏の本拠・河越城が北条氏に奪われると、南関東はほぼ北条氏の支配圏となるが、
そこには平安の昔より、この地を開拓し、土地に根づいた武士たち(武蔵武士)がいた。
彼らはつねに、大いなる勢力の影響下に生きていた。


(※1)鎌倉公方─かまくらくぼう。鎌倉府の長官。室町幕府の始祖・足利尊氏の末子・基氏の子孫が継承。
享徳の乱に始まる上杉氏との対立により、下総・古河に移り「古河公方(こがくぼう)」と称されるようになる。
(※2)関東管領─かんとうかんれい。鎌倉公方の補佐役。足利氏の重臣である上杉一族の惣領家・山内上杉氏が世襲。

(※3)山内上杉氏─やまのうちうえすぎし。上杉一族の惣領家。この頃は上野と武蔵北部を主に領有。本拠は上野・平井城。
(※4)扇谷上杉氏─おうぎがやつうえすぎし。上杉一族の庶家。
家宰(かさい。家臣のトップ)・太田道灌の活躍で、一時は急激に勢力を拡大するが、道灌暗殺、長享の乱の敗北などで弱体化。
相模、武蔵南部を主に領有するも、北条氏の勢いに押され、領国を失っていく。本拠は武蔵・河越城→松山城。

(※5)北条氏─初代・伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆、相模を経略後、武蔵南部に進出。
大永3(1523)年、二代目・氏綱の時、名字を北条に改称。天文10年に氏綱が死去し、三代目・氏康が家督を継ぐ。本拠は相模・小田原城。
(鎌倉時代の執権・北条氏と区別し「後北条氏(ごほうじょうし)」とも称される。)

※武蔵国衆・大石氏─元は山内上杉氏の宿老。武蔵国守護代をしばしば務める。
長享の乱の過程で、元の領地に加え、扇谷領国の武蔵国入東郡・多東郡などの地域も手にする。本拠は武蔵・八王子の由井城。
大永4(1524)年頃には、北条氏に従属していたとみられる。


《笠野・秋津家の位置付け》
平安時代より、武蔵国入東郡笠野の地を開発し、治めてきた武蔵武士の末裔。
源平合戦、承久の乱、鎌倉幕府追討や南北朝の争い、平一揆の乱など、関東の戦乱を生き抜き、
室町時代は扇谷上杉氏の家臣だったが、長享の乱後、地域は山内上杉氏の重臣・大石氏の領国に組み込まれる。
大石氏が北条氏に従ったことで、配下の笠野も北条に従属。
それまで手を携えて困難に対処してきた、隣国の同族・滝口氏と対北条の方針をめぐって不和となり、
やむなく滝口を滅ぼすこととなる。


【時代背景の参考文献】
『関東戦国史 上杉vs北条55年戦争の真実』黒田基樹著 (角川ソフィア文庫)
『関東戦国全史 関東から始まった戦国150年戦争』山田邦明編 (洋泉社歴史新書y)
『歴史REAL 関東戦国150年史 戦国は「関東」からはじまった!』(洋泉社MOOK)
『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』黒田基樹編 (岩田書院)
『所沢市史研究 第23号』所沢市文化財保護課 など


関東要図(上杉─後北条氏の時代)

関東要図

『ハンドブック川越の歴史』(川越市教育委員会)より模写 ※「笠野」は管理人記入